意識の深い部分無意識に近い状態で、他の人に思(念)を向けられると、ヨーガのアジナチャクラと言われる額の中心に、人の心や宇宙の根源的な性質が、光として観えるようになります。宗教的な修行・瞑想等で得られる、意識の奥にある光は信仰する人達がキリスト・仏陀に遭ったと表現されるもので、光に意識集中すると実際に物事を目で見ているように過去世・未来世の出来事が心の目で観えることもあります。瞑想などで得られる深い宗教体験は、他人の心の中で考えている念を捉えて、自分の心が考えているように錯覚している事がわかるようになります。

無意識の意識は継続する性質があり、生まれ変わる時心の意識の中に性質として持って生まれてきます。深い宗教的体験・瞑想で得られる知る力は、霊能者と呼ばれる人達だけの特殊な能力ではありません。生まれた時から潜在意識の中に誰でも備わって持っているものですが、前世の因縁や前世の善行先祖の余徳が先見の明などとして発現する人もいます。

一般の人も深い眠りから覚める時の半覚醒状態は、深い瞑想状態を一時的につくり、他人の心の中で考えている事を観るような現象を起こすことがあります。朝方に見る夢は現実になる事が多い。

仏教の他心通力、一般的にテレパシー・インスピレーション等と呼ばれていますが、時宗の宗祖
一遍上人は、華のことは華に問え、紫雲のことは紫雲に問え等の言葉は物質的な物の例えでは言い表せない悟りを得た人の言葉でしょう。

神教・仏教では、中心になる悟りを得た人を絶対者神仏のように扱う理由は、人間は心の中に身体を守ろうとする防衛本能の働き「自我」を遺伝子の中に持っているため、他人を自分の心の中に入れないように、拒絶しようとする思いが無意識に働いているため悟りとは程遠いところにいますが、宗教的修行・瞑想は肉体を守ろうとする心の中の身構え、心のバリアーを取り去り、悟りを得た人と念を融合させて、無心の心の状態を修行をしている人の心の中に作り出そうという目的があります。悟りを得た人が、神仏の化身であるとか、特殊な人間であるという意味ではありません。

神教・仏教の悟り(幸不幸の原因、前世から継続している意識の記憶から開放される方法)へ近づくため、最初の動機は超能力・霊能力を身につけようという形で入ってもかまわないと思います。宗教的な修行・瞑想時に体験する超感覚的知覚、神秘体験は、オカルト的な体験は、深い瞑想状態に入ると宗教の求めている本質に出会う過程のワンステップに過ぎない事が理解出来るようになります。しかし、超感覚的知覚体験を通らずに悟りに到達することも不可能に近いでしょう。

宇宙の持っている性質【神仏】に出遭う最終段階は悟りを得た人に念を融合させ引き上げてもらう事になるものですが、宗教的修行・瞑想で中心になる人が神・仏(クンダリ−ニの覚醒)に出遭う体験をしている人であれば、信仰する人達の心の中の状態がどの段階あるのか、どのような状態にあるかがわかるものです。

深い宗教的な瞑想体験は、危険が伴うことがあるので即場指導を受けられる環境も必要です。宗教的修行・瞑想のキーワードは、大安心・至福・大楽の中にあります。神教仏教でこれらの言葉を使う意味は不快な念や憎しみ苦しみの思い持っていると悟りを得た人と念を融合する時に受け入れてもらえないと言う意味があるのですが、最終段階の念の意識状態を指す言葉で天上界極楽浄土と言われる世界です。天上界極楽界は、遠い彼方のガンダーラや須弥山、西方浄土に存在するのではなく、地獄界も地の底に存在するものではありません。物質肉体等と相対する、目に観えない微細な念「霊」世界が、あなたの周りに存在します。喜びにつつまれた大安心の世界、もがき苦しむ過去・現在・未来世の念の世界も存在します。

神教・仏教で悟りを得た人達が宇宙を含め世界は無・空であるという意味は、母親から生まれる前は何も無い、肉体に死が訪れ死んで灰になるから、元々何も存在しなかったのです等と言うような、物理的な意味合いではなく、医学的な立場から見る肉体の性質や、染色体【デオキシリボ核酸・DNA】遺伝子によって作られる、固体の性質以外の念【霊】の持っている性質は、宇宙の持っている根源的な性質と同じであり、物質を生み出す神仏の相対する性質が、喜怒哀楽をも作り出す意味なのです。宗教の平等性や、人は皆神の子であると言われる意味と同じものです。

神仏といわれる宇宙世界を創造する意識体は存在します。前世に善徳を積んでいたり、先祖の余徳を持っている生まれる人は行動に神仏の持っている理の性質がでて、無意識によい方向へ導かれる人もいます。一般の人も、正しい宗教的体験・瞑想が行われると、幸運な人は稀に出遭うことができるのですが、すべての人は神仏に出遭う可能性を持っています。

私の経験では宗教に興味がある人先祖供養の目的の人よりも、超能力・霊能力を求める人の方が人間の本性に目覚めやすいと思います。稀に周囲の人を幸福にする神仏のような黄金色に近い高い念の波動を持っている人に出遭うこともありますが、座禅等で自我を削り取る精神修養を二五年〜三十年もしている人は、高い念【霊体】を持っているようです。

人の事を恨み憎しみ周りの人に争いを起こさせ、自分だけが栄るような念を出している人もいますが、超感覚的知覚体験をすると、不快な念「生霊」を向けられた人が好ましくない状況に陥ることで、一時的に成功したように見えても因果応報の災いを受ける事が理解出来るようになります。因果応報の性質は行動と心にどのような思いを持っていたのかを含め、積んだ善悪の分だけ必ず我が身に返るものです。

霊の世界・死後の世界があるか無いかと問題にされることもありますが、あなたが私と認識する心の存在が、私であると認めるのであれば、因果による喜び苦しみの死後の世界・輪廻する来世も存在します。現世の生き方は、あなたの未来世の生き方に影響をあたえるでしょう。仏教では死後の世界、霊の存在を説いてはいないと言う人もいますが、理由もなく訪れる不運な運命・悩み苦しみの現実世界を否定するような言葉で真実ではありません。

宗教の最終到達点、無空の本質的な意味は因果の呪縛から解き放たれた神仏の世界、つまり、悟りと言われる悩み苦しみのない歓喜の世界に到達し、宇宙の根源的な性質【神仏】と合一した状況を表現した言葉ですが、深い宗教的修行・瞑想で体験する死後の世界、即身成仏の形は仏像などに光背・身光として残されています。般若心経に無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽と書かれている意味と同じもので、宗教に深く帰依して悟りと言われる段階を得た人は知ることがます。

因果輪廻を否定した物質的な思想は、宗教的修行瞑想の妨げになりますし、宗教の存在を否定し、宗教の持っている道徳性【方便】・ボランティア精神・社会秩序や人としての尊厳さえも見失う恐を持っています。宗教の修行をしている人が、私の信じる宗教が正しくて、他の宗教は本物ではないと否定する人もいますが、宗教を広い目で、多角度から知ることも必要です。一つの宗教・宗派だけで判断するのではなく文明の背景時代考証を見ることも必要です。砂漠地帯と肥沃な土地に栄える宗教では、仏教・キリスト教・イスラム教等のように、思想に違いがあるのは当然のことなのです。

信仰する宗教・宗派に他の宗教を比較して本質を見極めて行くことも大切です。対立する心を持ち他宗を否定するような囚われ執着があると悟りを得られるものでは有りません。全ての神教・仏教も最終的に同じ場所に行き着くのです。過去に悟りを得た聖人と言われる人が、他の宗派を否定した理由は、悟りを得て真実を知る裏付けもありますが、時代の背景もあります。宗教の世界では悟りを得る人の確率は、3000年に一度咲く優曇華(うどんげ)の花にたとえられるように希少なものとしています。聖者と言われる人が同じ時代に複数存在する可能性が少なかった事にも起因しているのです。

経典に多いのが無の言葉ですが、無は何もないとは書いてはいません。無になった時人が持っている神仏の性質が額に蓮華が開き宇宙の法世界を創る性質が現れると書いてあります。肉体感覚の有を離れ無の意識状態になると、相対する無の世界が現れると書かれています。多種の経典に書かれている内容は、信仰する人達が悟りと言われる涅槃浄土の、高い念の世界に行くまでに出遭う体験・現象を書いた、先人が残した教科書なのです。あなたの信仰・宗教的な修行は、これ位の段階にいますよということが書かれてます。

悟りへの道標は経典ばかりではなく、真言密教の阿字観・月輪観のように肉体を超えて直接的に意識に働きかけ、宇宙の法大日如来に出遭うことを目的とする 合理的な密教の方法もあります。

座禅は・父母未生以前における本来の面目如何・という考案の中に、過去の因縁で人の出会いがあり、今ある場所は過去に望んだ姿であることを、仏性を見る事で悟らせようとします。父母未生以前における本来の面目如何、の言葉の意味は悟りを得ると、父母の念の融合により新たな生命が発生することを知り、悟りへの入り口が悟りの到達点であることを理解できるようになります。

一般の家庭で使われている仏具のほとんどのものは、神仏に出遭うために作られた意味のあるもので、在家の人達が先祖に祈りを奉げたとき、無意識に深い心の状態が創られ、先祖供養と自身の供養が出来るようになっています。それぞれの宗派・宗教的行為の中に、悟りに結びつくシステムがあります。

超感覚的知覚、第三の眼

日蓮聖人が、南無妙法蓮華経、この言葉の中に悟りがあると説いています。

蓮華
深い宗教体験は仏像の額・白毫【びゃくごう】と呼ばれる場所に宇宙世界を創りだす根源的な性質、仏性と呼ばれる黄金の光が観えるようになります。釈迦が天上天下唯我独尊といった意味の本質で根源的な性質は、心の深い真我と言われる部分は繋がっており、宇宙即個人の仏性であると即心是仏を説いています。


摩訶不思議な光は透通り、人の心の深い部分に持っている、過去世・現世・未来世の因果を画像として映し出します。それらの体験は、人間は頭で考えて行動している割合よりも因縁でつくられた念を捉えて自分の心の中で考えている様に、錯覚して行動している【させられている】ことに気がつくのです。


宇宙世界を創りだす根源的な性質【神仏】に出遭い融合すると、人間の幸せ苦しみを作り出す過去世・現世・未来世の因果のメカニズム、宇宙の法が理解出来るようになり、因果応報生まれ変わりのすべても理解出来るようになります。



悟りの表現

仏教では地獄に落ちるという言葉を使うこともありますが、悪意・憎しみ苦しみ等の否定的な感情を持っている人の念を捉えると、その人の念光【念体】が下に落ちてゆく現象が観えるのですが、地獄と言われる念の世界にいる人は、いつも焦燥感や怒り苦しみ、悲壮感の波動を出し、安らぎ喜びの感情を得ることは出来ないようです。それらの念光【霊体】の状態は、過去の因果応報の姿です。

ヨーガではアジナチャクラに観える、千の花弁を持つ蓮華と言われることがあり、龍が手に持っている水玉のように表現されることもあります。心の目で見える時の仮の姿を表現したものです。

龍は、ヨーガ等でクンダリーニと呼ばれる事も有りますが、実際に存在する生き物ではありません。心が積極的 攻撃的な感情を持って意識集中している時(意識集中は五感、左脳による集中ではなく、無に近い意識状態です)表れる左右に渦巻く、らせん状の念光を表現したもので念「霊体」の働きをが表現されています。